北澤篤史の日本全国を股にかけた壮大な学歴と職歴

北澤篤史は必ずしも無鉄砲で後先を考えないという性格ではありません。しかし、彼が歩んだ道のりは、まさに日本全国を転々とする長い逍遥の半生でした。まず、岐阜県の高校を卒業した北澤篤史は、東京都の有名私立大学に入学します。そこで日本史を勉強した後は、愛知県の社会科教員採用試験に一発合格を果たし、同県の高校教員として赴任することになりました。そこで彼は教職員としてのスキルを磨くのですが、一方で大学の頃に勉強した日本史の研究を行いたいという気持ちが強くなっていきます。そこで大学院修士課程に入学すべく勉強を開始するのですが、教員としての仕事との両立が難しいということがわかり、1年間の休学を余儀なくされてしまいます。

休学期間中に大学院に向けた勉強を行った北澤篤史は、今度は京都府にある大学の大学院に入学を果たします。彼がその大学を受けたのは、研究を行いたいと考えている中世の禅僧に関する研究をしている塩見健三教授が在籍していたためでした。ここでしっかりと日本史研究の基礎を積み重ねた後、修士課程としては最短の2年で修士論文を書き上げます。

そしてそのまま博士課程へ進学しようと考えていた北澤に、塩見教授は北海道にある大学の大学院博士課程への進学を勧めます。中世期の禅僧の研究には対外関係史が欠かせませんが、北海道の大学にはその対外関係史研究の権威である安武伸太郎教授が勤務しており、より北澤の研究を深化させることを慮っての配慮でした。結局この勧めを受け入れ、北澤は北海道にある大学院の博士課程に進み、4年間で文学博士号を取得します。

北澤篤史はその後、約1年間北海道で研究員として勤務して研究を続けますが、この時に運よく博士論文を『中世対外関係と禅僧の活動』として出版することができました。この業績により北澤は愛媛県にある大学に准教授として採用されることになりました。自分の研究活動のためとはいえ、何度も何度も転勤や転居を繰り返すことに疲れていた北澤は、いい加減この愛媛の地で落ち着こうと5年ほど職務に精励します。

しかし、運悪くか運良くか、福岡県にある大学が大きな国際交流部門を立ち上げるということになり、その責任者の一人として北澤に招聘を打診してきたのです。愛媛で落ち着くことができたと思っていた矢先のことだったので、北澤はかなり苦慮しましたが、やはりより環境と志が高い機関で研究したいと、福岡の大学への転職を決意するのです。最終的に教授として昇任した後、全国の学校をわたり歩いてきた北澤篤史は退職までこの福岡の大学で研究活動を継続しました。

北澤篤史は全国各地へ転勤をし続ける多忙な人物でしたが、彼の授業を受けた学生は口を揃えて「彼は厳しい先生だったが、親しみやすい人物だった」と言います。彼は学生に対しレポートや課題を多く課し、締切や評価を平等に情け容赦なく下します。しかし、どんな人物であっても平等に厳しく扱うことが逆に好感を持たれたのか、老若男女問わず彼の周囲には人が絶えることはありませんでした。何人かの学生にはかなりプライベートな相談までされていたそうです。
その中でも大学在学中に両親を事故で失い、大学を中退しようとする学生に対して一切の躊躇なく無利子で学費を貸したエピソードは有名です。その件の学生は現在とある有名大学の教授をしていますが、今でも北澤篤史との交流は続いているそうです。このように彼は人情味溢れる人物です。彼自身全国各地の大学へと盥回しになった経験から苦しい境遇の学生にはついつい甘くなってしまうのではないか、とその学生は述べています。
彼がしていた講義は現在、教え子に引き継がれ、今でも人気のある講義となっています。多くの課題やレポートにも関わらず、毎年多くの学生が訪れていることから親しみやすさが伺えます。

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